一族10人が収入の目途もなく、
一つ屋根の下で生活していかなければならなくなった
日本では、経営者の再起はきわめて難しいと言われている。しかし、なかには復活を遂げている人たちもいるはずだ。この連載では、経営していた会社が倒産しながらも復活を遂げた人や、遂げつつある人たちの生き方を紹介していく。
第1回は、中古車の流通革命を目指して設立されたガリバーインターナショナル(以下ガリバーと略す)社長の羽鳥兼市さん。ガリバーは94年に設立され、急成長を果たして、9年後の2003年には東証1部上場企業になった。その社長の羽鳥さんは、76年に倒産を経験している。倒産を経て再度会社を立ち上げ、ついには東証1部上場企業をつくりあげた軌跡を追ってみよう。
羽鳥兼市(はとり・けんいち)
1940年10月福島県生まれ。59年、県立須賀川高校卒。同年、父が経営していた羽鳥自動車工業入社。66年、義兄と羽鳥総業を立ち上げる。76年、羽鳥総業倒産。同年、東京マイカー販売を設立。94年ガリバーインターナショナルを設立。98年、株式を店頭公開。2000年、東証2部上場。03年8月、東証1部に上場。
ビジネスはゲーム。倍になっていくのがなによりも楽しい
「Gulliver」と書かれた大きな看板に、見覚えがある人もいるだろう。松井秀喜を起用したテレビCMを覚えている人もいるだろう。ガリバーは、94年に設立されてわずか9年で東証1部に上場するまでに急成長を遂げた企業である。この事実一つとっても驚きだ。さらに、ガリバーの社長が実は倒産経験者だったと聞くと2度驚かされる。倒産を経験しながら、どんな経緯を経て1部上場企業をつくりあげたのか。
ガリバーの社長羽鳥兼市さんは、福島県須賀川市に生まれた。家は江戸時代から続く理髪店。理髪店は母が営み、この家に婿入りした父は、板金塗装業、再生タイヤ工場、洋服の卸し問屋などいくつもの事業を手がけていた。羽鳥さんは父の影響もあって、幼い頃から商売が好きだった。小学校3年生のとき、社会科見学で青果市場に行くと、好きな納豆が定価の半額の5円で売られている。「この納豆を売ってくれと頼むと、20本を一口にして売ってくれると言うんです。早速買って翌朝、学校に行く前に近所で売ったら、買ったお金が簡単に2倍になった。そこで翌日、市場で今度は40本を買って売ると、買ったお金がまた2倍になった。市場の人に、よく売れたねえと誉められるのがうれしくてね。3日目には80本を仕入れて売り、4日目には160本を仕入れた」
さすがに160本ともなると、登校前に近所に売るだけではさばけない。夜、自転車に籠をぶら下げて芸者置屋に顔を出し「これ売れないと家に入れてもらえないんだよ」と訴えたら、芸者さんが「かわいそうに。みんな置いていきな」と買ってくれた。
高校に入学すると、運転免許を取る。当時は16歳で免許が取れた。免許を取ると車が欲しくなり、通学路沿いの農家に真っ赤なルノーが置かれているのを見て「売ってくれ」と交渉をした。農家の主人は「東京に行った息子の車だから売れない」と拒否。それを何度も交渉を重ねて、ついに3万円で売ってもらった。
このルノーを板金塗装してきれいに仕上げたら、27万円で売れた。そのお金を元手にして今度はモーターボートを買う。ボートを猪苗代湖に浮かべて、貸しボート屋を始めたのだ。他の貸しボート屋は「8人そろったら1回5000円」と言っているのでお客が来ない。羽鳥さんは「一人400円でいい」と言って大繁盛させた。このボートを平日はボート屋に貸して利益の半分をもらい、土日は自分で仕事をしたから、高2で2艇目を高3で3艇目を手に入れる。大学生の学生企業家顔負けの、高校生企業家だ。愛読書は松下幸之助の伝記だった。
「お金を儲けてなにかを買いたいとか、遊びたいというんじゃなくってね。倍になっていくのがなにより好きなんですよ。まあ、ゲームの面白さと同じですね。いまだって、感覚はそのままです。お酒もタバコもやらないし、ゴルフもやらない。趣味といえば毎年ホノルルマラソンに出場していることくらいです」
手形サギにあい倒産をして、どん底に突き落とされる
高校を卒業するとき、羽鳥さんは東京の大学を受験。合格して入学金を納め、下宿先も決めて夜具も送った。すると、父の猛反対に合う。「東京へ行ったらもう帰ってこないだろうと思ったんでしょうね。事業を継いでくれる男もいなくなるし」
羽鳥さんは説得を受け入れて、父が経営していた板金塗装の羽鳥自動車に入社した。進学を断念した代わりに中古で170万円もしたシボレー・エンペラーを買ってもらった。その後1年間、東京の自動車整備会社に修業にいったとき、このシボレーを同僚に1日7000円で貸し小遣い稼ぎをしていた。
26歳のとき、姉の夫と二人で郡山市に羽鳥総業を立ち上げる。この会社も板金塗装業だ。ここでも、持ち前の事業家精神が頭をもたげてきた。下請けの板金塗装では儲からない、元請けになれば儲かる。そう考えた羽鳥さんは、毎朝5時に起きてクレーン車で国道のパトロールを始めた。
すると毎朝、なんらかの事故が起きている。車がガードレールにぶつかっていたり、田んぼに落ちていたりする。その事故にあった人を病院に訪ねて、ベッドに寝ている車のオーナーに「あのままじゃ、タイヤを盗まれるから引上げますよ」と言うと、仕事が取れた。このやり方で、羽鳥総業は元請けとして大繁盛するまでになる。10年後にはクレーン車40台、従業員40~50人の中企業にまで成長した。
76年、同業者から福島県の事業を売却して東京に引っ越すという相談があり、義兄と羽鳥さんはその会社を買収することにした。契約が済み買収代金も手形で渡し、8月1日から経営権が変わることになった。東奥高速道路や東北新幹線に絡んだ仕事があふれていたので、7月31日の深夜まで相手と翌日からの仕事の段取りを話し合っていた。「明日からこの人たちはこの現場へ、こっちの人たちはこっちの現場に入ってくださいと夜の11時まで話し合っていたんです」
ところが一夜明けると、相手の会社は見事にもぬけの殻。相手に渡していた手形は交換に回され、不渡りを出してしまった。
「相手方はどうも二重に売っていたらしい。クレーンなどの機械を別な会社にも売ることにしていてね。いま考えると、事件にして交換所に手形の支払いを拒否することもできたんでしょうね。当時は2つ上の義兄も私も若かったから、そんな智恵も回らなかったな。不渡りを出せば倒産だとばかり思っていましたね」
羽鳥総業は、義兄と羽鳥さんがつくった会社である。しかし、登記上は父が代表者になっていた。「羽鳥総業では郡山の1000坪以上の土地を借りていました。その土地を借りるときに、代表者に信用がないと貸してもらえなかったので父に社長になってもらったんです。実際には父が郡山の会社に来ることは年に1回もないくらいで、副社長の義兄と専務の私が経営をしていました」
羽鳥総業の倒産は地方紙でも報道された。会社があった場所には、会社の事務所と姉の一家が住む自宅があった。そこにあったものは、すべてなくなった。それだけではない。郡山から16キロ南にある須賀川にも、債権者たちが押し寄せてきた。須賀川には羽鳥さんの両親と羽鳥さん一家が住む自宅と、羽鳥自動車の店舗がある。羽鳥総業の代表者が父だったため、借金などの個人保証はすべて父が引き受けていた。そこで債権者たちは、この自宅にもやってくる。
「あっという間にこわいお兄さんたちがすっ飛んできて、金目のものは会社の機材も家財道具もみんな持っていかれました。義兄は賭け事が好きだったから、そんな借金もあったんでしょう。耐えきれずに、妻である私の姉と子ども3人を残して海外に逃亡しました」
残されたのは須賀川の自宅と店舗だけ。それも羽鳥総業が銀行、信用金庫、信用組合から借りていた3億円の借金の担保になっている。その家で両親、羽鳥さん、妻、当時5歳と3歳だった羽鳥さんの2人の息子たち、それに姉と10歳の長女を筆頭にした姉の3人の子どもたちが生活していくことになった。全部で一族10人。お金もなければ仕事もない。残ったのは3億円の借金と、その担保になっている自宅。
羽鳥兼市さん、35歳の夏の苦い思い出である。












