たばこの輸入販売会社をつくりあげたのに、
大震災をきっかけに行き詰まった
脱サラをして貿易会社を立ち上げた鈴木健介さんは、2001年、会社を破産させた。現在はいくつかの会社を経営する一方で、経営コンサルタントとして、経営者を対象にしたセミナーの講師も引き受けている。それらの経験から、倒産社長が復活を遂げるには、それまでとは手段を変える必要があると力説する。
鈴木健介(すずき・けんすけ)
1947年3月、滋賀県生まれ。レコード会社、外資保険会社勤務を経て、85年、たばこ輸入販売会社を設立。2001年、倒産し会社と個人の破産を申請。02年、免責後、アウトソーシング会社の鈴木組を設立。03年、ホームクリーニング会社のサリタ多摩を、05年、コンサルタント会社のアシストジョブを設立。経営コンサルタント。著書に『破産からの再起』(大村書店)がある。
窮地をどう乗り越え、なんに向かって生きているか
取材に入ると、いきなりパンチを振り下ろされた。「三浦さんは、人間の価値ってなんで決まると思いますか?」
「人間の価値? そりゃあ、難問だなあ」
「私はこう思うんですよ。世間では、学歴や所属している職場や役職が、人の価値だと思われているふしがある。でもそれは、間違いです。人間の価値判断の基準になるのは、窮地に陥ったときにそれをどう乗り越えて、いま、なんに向かって生きているかです」
経営者にとっては、倒産が最も大きな窮地だ。その窮地をどう乗り越えて、さらにはなんに向かって生きていくかが、人間の価値を決めるというわけか。
鈴木さんは経営者を対象にしたセミナーの講師を引き受けている。そんな場で見ると、いま現在行き詰まっている経営者たちは、これまでと同じ仕事を続けていくことしか考えていないと感じるそうだ。
「経営者の本業は、ビジネス、つまり金儲けです。これまでの仕事をやってきて行き詰まっているのなら、手段を変えるべきでしょう。枯れた井戸をいくら掘っても、水は出てきません。倒産社長が復活しようとする場合も同じです。復活できないのは、倒産した後の仕事が見つからないからです。次の仕事が見つからない理由は、それまでやってきた仕事にこだわるから。それまでの仕事にこだわらず、お客さんがいる仕事を始めればいい」
そうは言っても、これまでと同じ業種や職種でないとノウハウがないというのが現実だろう。
「私の体験では、同じ業種や職種で転職しても、まったく同じ仕事なんてありません。それなら、経験のない仕事を始めたっていいのではないでしょうか。私は、創業したいと考えている人たちを対象にしたセミナーの講師も引き受けています。そんなセミナーで参加者に尋ねると、ほとんどの人が『好きな仕事をしたい』とおっしゃる。しかし、仕事にまず必要なのは、自己を満足させることではなくお客さんではないでしょうか。お客さんがいるかどうかを考えていないという点では、彼らも再起できない倒産社長と同じです。まずは、お客さんがいるかどうかを見定め、お客さんがいる仕事を始めるべきです」
確かに、最近、起業をしたいという人たちのなかには、好きな分野の仕事をしたいからという動機を語る人が多い。第3回、第4回で登場した吉田雅紀さんも、“スキメシ”というキャッチフレーズで、好きなことで飯を食うという生き方を提唱している。この考え方は近年、急速に広まっているようだ。もともと好きなことを仕事にするほうが、がんばって続けられるという面もあるだろう。
しかし、鈴木さんの考えは正反対だ。ビジネスのプロである以上、需要のある仕事をやるべきだと主張する。鈴木さんがこんな考えを持つに至ったのは、創業した会社を倒産させて、そこから復活を遂げてきたという裏づけがあるからだ。
クローブたばこの販売会社を設立し、年商17億円まで成長させた
外資系の保険会社に勤務していた鈴木さんが脱サラを考えたのは、1984年のことだった。翌年にはたばこの販売が自由化されることになっていたし、インドネシアのクローブ(木の実)たばこの存在を知ったので、このたばこの輸入販売をやろうと考えた。たばこの葉にインドネシア特産のクローブがブレンドされたこのたばこには、独特の香りがある。当時アメリカの若者たちの間では、マリファナを吸引した後の匂いを消すために、このたばこが広まっていた。日本でも、バリ島に遊びにいったサーファーたちに、このたばこが支持されていた。
鈴木さんは保険会社に在籍している間にインドネシアに足を運び、いくつかのたばこメーカーにあたりをつけた。こうして85年8月、鈴木さんは友人2人とともに東京の国立に日本クレテックシガレット販売という会社を設立した。手作りのポスターを全国のたばこ店に貼ってもらい営業を始めると、2~3カ月後には月商が1000万円前後になり給料や経費を払っても利益が出せるようになった。
3年後には、従業員13人、取扱い店7500余、月商5000万円強、商品原価4000万円になる。人件費や経費を払っても数十万円の利益が出て、そのお金がプールされていくという理想的な運営ができる中小企業に育った。順調なうちに次の商品を準備しようと考えた鈴木さんは、ギリシャのたばこやアメリカのたばこも取り扱う。
さらに鈴木さんは、社員が海外土産に持ってきたたばこに目をつけ、フランスのクレージュ社にアプローチする。この交渉には、巨大な総合商社が参戦してきた。しかもクレージュ社からは、3000万円のロイヤリティを支払うように求められた。このとき鈴木さんは、こう主張した。「ロイヤリティは支払わない。なぜなら、支払うとわれわれは、その回収を考える。あらゆる手段を駆使して多く売ろうとするだろう。その結果、ブランドイメージが低下するはずだ」
この戦いは、鈴木さんの勝利に終わった。鈴木さんが主張した、ブランドイメージを守りたいという姿勢と、もう一つ、イエスもノーも即答してくれるという点を評価されたためだった。総合商社は交渉する担当者に決定権がなく、即答できないという点がクレージュ社には不満だった。
この契約を機に、会社はマンションからビルの1階に移り、資本金も1500万円に増資した。同時に社名をジェイケートゥエニーワンに変更。従業員は26人に増えた。クレージュという名前のたばこは、1個500円の高額商品だったのに面白いほど売れる。会社を設立して6年目には、月商が1億円を超え、毎月500万円もの利益が生めるようになっていた。
阪神大震災で大損害を受けた後、不治の病を患う
92年の暮れ、ヨーロッパに駐在していた従兄弟から、鈴木さんは「スナッフ」と呼ばれる煙の出ないたばこを見せられた。プラスチックのケースに入っている粉末を鼻腔に吸い込むというもので、煙が出ないから機内でも吸えるし、禁煙になっているオフィスで吸っても人に迷惑をかけない。鈴木さんは早速、ドイツのメーカーに連絡して全国の店頭に並べた。テレビのニュースでも取り上げられて、スナッフは売れに売れた。
94年には、台湾からもオファーが来た。鈴木さんが「なぜ、ドイツのメーカーと直接取引をしないのですか」と聞くと、こんな返答が返ってきた。「あなたはマーケットがなかった日本で嗅ぎたばこを広めました。台湾にもマーケットはありません。だからこそ、あなたのノウハウが欲しい。台湾の実情を見に一度おいでください」
この台湾の人は鈴木さんを一家をあげて歓迎し、鈴木さんの妻が免疫障害に冒されていることを知ると北京の漢方医を紹介してくれた。北京に同行した台湾の友人から宴席に招かれ、新華通訊社(新華社通信)の幹部たちとも親交を深めることができた。
その後鈴木さんは、スナッフメーカーのカタログのなかから、鼻腔から吸引する真っ白な粉末を見つけた。成分はブドウ糖とユーカリ油だから、たばこではない。たばこでないということは、たばこ税が課せられない商品だ。それでいて、コカインを思わせるようなミステリアスな魅力があった。この商品「スナッフィ」を売り出すと、夕刊紙やテレビが続々と特集を組み大当たりした。
しかし鈴木さんは、バブル時代の経済状況に疑問を抱いていた。会社の業績は順調に伸びて、90年には17億円にも達していた。「株の値上がりにはそれぞれの企業の内容の裏付けが必要なのに、なんの裏付けもなく上がっている。いつかは下がり、景気も悪くなるだろう。嫌煙権も広がってきたからたばこの売上げも落ちるだろう」
そう考えた結果、アルバイトを含めて38人いた従業員を、雇用契約を解除したり知人の会社に紹介したりして6人にまで減らした。その他の経費も減らしたので、それまで毎月4000万円かかっていた必要経費を一気に1000万円にまで引き下げることができた。仮に売上げが3億円にまで下がっても維持できるという体制である。
このときから1年半たった91年には、鈴木さんが読んだ通り、株が暴落し土地の値下がりも始まっている。ここまでは、うまくいった。
94年、クレージュ社から送られてきたパイプたばこと手巻きたばこが、横浜港につくはずだったのに、船会社の手違いで神戸港に陸揚げされた。暮れのことだったので、当面は神戸の倉庫に保管してもらい、年が明けたら船会社の負担で横浜に移すことにした。
ところが年が明けたとたん、阪神淡路大震災が起こった。預けていた倉庫が被災し、商品の一部は燃えて残りは水浸しになってしまった。船から下ろされていたので船荷保険の適用はなく、船会社の手違いで神戸に水揚げされた商品を好意で預かってくれたのだから、倉庫会社の賠償もない。輸入代金の4000万円は補填されず、見込んでいた売上げの1億6000万円もぶっ飛んでしまった。輸入代金の決済も危うくなり、銀行に手形貸付を申し込まざるをえなかった。
この事件の後、徐々に持ち直しはしたものの景気は悪い。たばこの輸入販売には仕入れ経費や保管費用が必要なので、それも経営を圧迫する。そこで鈴木さんは、コミュニティFMのラジオ局を開設しようと考えた。アメリカで見たラジオ局は1人か2人ですべての業務をこなしていたので、経費もそうはかからないと思ったからである。ところが調べていくと、日本では法律でがんじがらめに規制されていることが分かり、断念せざるをえなかった。
この頃、インターネットが普及してきた。インターネットのプロバイダーの女性社長が遊びにきたので相談をすると、彼女はインターネットでネットマガジンを始めればいいという。鈴木さんは、ネットマガジンを発刊することにした。
自分でホームページをつくる作業ができるようになった96年の夏、庭でバラの手入れをしていた鈴木さんは、肘の裏側にちょっとした痛みを感じた。翌日には発疹が全身に広がり、開業医から塗り薬をもらったが効き目がない。数週間後には、顔や頭にまで症状が広がって、皮膚が少しでも引っ張られると血が出る。
大学病院を訪ねると、検査の結果、自己免疫疾患の一種であることがわかった。ホームページをつくるために、毎日12~13時間の作業を続けたことで疲れとストレスが溜り、コンピュータからの電磁波によって自己免疫の調整機能が目一杯の状態になっていた。バラの手入れをしていたとき、毛虫の毒が体に入ったのをきっかけにこの調整機能が爆発し、その後は免疫機能が電磁波を外敵にして自分の細胞を壊してしまう。免疫障害は、不治の病である。
仕事の内容を変えようと思い出した頃から焦りばかりが先だち、じっくりと事業計画を立てる余裕もなくなっていた。出社しても部屋にこもる毎日が続き、健康状態も悪化して考え方が後向きになっていく。阪神淡路大震災で被った損失を埋め合わせられず、これ以上の借金をすることもできない。鈴木さんは、会社を休業させようと決めた。各メーカーに休業を申し出て、その業務が完了したのは2年後の98年だった。
会社がうまくいかなかった原因を、いま鈴木さんはこう語る。「阪神大震災だとか病気だとか、そんなことが根本原因ではありません。自分がなまくらだったことでしょう。たばこの販売が自由化されたときだったので、自分が業界をリードしているという錯覚に陥っていましたね。一つの成功がすべてに通じると思いあがって、環境の変化を受け入れなかったのが一番の原因でしょう」
こうして、会社は休業してしまった。負債は残ったままである。












